Column/Interview

2021年2月3日、SHAKKAZOMBIEの一員であり、ファッションデザイナーとしても世界的な評価を受けるオオスミタケシ──MC名はOSUMI, のちにBIG-Oと改名──の訃報が知らされた。訃報を受け、PRKS9ではSHAKKAZOMBIEのトラックメイカー・TSUTCHIEに連絡を取った。それは氏の急逝に際し、BIG-O, IGNITIONMAN a.k.a. ヒデボウイ, TSUTCHIEの3人が揃ったSHAKKAZOMBIEとしての活動が今後不可能となったことを受け、この3人が残した軌跡を記しておかねばならないという信念からだ。

SHAKKAZOMBIEはどのように生まれ、どのようにシナジーし、そしてどのように休止に至ったのか。BIG-Oの急逝直前までの3人の想いも含め、いまこの瞬間だから切り取ることの出来たSHAKKAZOMBIEの姿を知って頂きたい。改めてオオスミタケシ氏のご冥福をお祈りします。

(*)氏のMC名はPRKS9側は基本的にBIG-Oと記載するが、楽曲発表時の記載や、TSUTCHIEの発言においてはOSUMI名でも記載している

SHAKKAZOMBIE以前のグループのデモテープがある


─TSUCHIEさん、本日はよろしくお願いします。
 SHAKKAZOMBIEの話に入る前に、まずTSUTCHIEさんの近況も聞かせて下さい。
 ご自身のレーベル・SYNC TWICEを立ち上げ作品を発表すると共に、マスタリングなどでも各所活躍されていますよね。
 近日だとOtagiri 『The Radiant』のマスタリングを全編手掛けられていて。

TSUTCHIE:
そうですね、自分で出したいときに出せるような環境にしたいなと思ったのでSYNC TWICEを立ち上げました。
自分が良いと思ったアーティストが発表する場にもなってますし…ほんとは自分の作品を出すためだったんですけど。
SYNC TWICEを立ち上げたのは2011年なんですが、なんだかんだまだ出せてないという笑

(TSUTCHIEの1stアルバムである)『Thanks for Listening』(2002年)から20年の節目にはなんか出したいんですけどね。
あのアルバムも(インタビューの場となった)このBS&T studioで録音して…元々サニーデイ・サービス等も使ってたスタジオなんですけど、もう使い始めてから20年経つってことですね笑

─なるほど、ありがとうございます。
 ではここからSHAKKAZOMBIEの話に…まずはそもそもですが、BIG-Oさんとの出会い、SHAKKAZOMBIEの結成経緯を教えて貰えますか?

TSUTCHIE:
1992-3年のときに、まずOSUMIくんと出会ったのが最初ですね。
自分の友達が下北沢で洋服屋の店長やってたんですけど、原宿の別のお店と合同でDJイベントをやるっていうので呼ばれたんですよ。
俺も当時はちょこちょこDJ始めてたんですけど、そういうちゃんとしたとこでやるってたぶん初めてで…DJ BAR Inkstickっていう、今はもうないクラブだったんですけど。

それで行ってみたら、原宿側から誘われてきてたのがOSUMIくんでした。
第一印象は「とにかくデカいな」それから凄く笑顔で挨拶してきて「優しいな」ってところ。
OSUMIくんが今回亡くなって、みんな「優しい人だった」って言ってくれてますけど、まさにその通りで。
「デカい」、「優しい」。
この印象は最後までブレることがなかったですね。

で、OSUMIくんは紹介されて会ったときに「俺、ラップやりたいんすよ」って感じで。
俺も当時サンプラー買ったりしてラッパーを探してたので、そこでじゃあ一緒に、ってなりました。
当時はもう1人別のMCもいて、3人でデモテープを録ってました。

─じゃあ、SHAKKAZOMBIE以前のデモテープが存在する?

TSUTCHIE:
ありますね。
こないだ(キミドリの)クボタくんが3-4本は持ってるみたいに言ってたかな。
たぶん自分の家も探せばマスターテープもあるのかもしれないですけど。
カセットMTRで、みんなでカラオケボックスで録音しましたね、そのときは全然SHAKKAZOMBIEじゃないグループ名で。

それでデモテープを配りに、キミドリが下北沢のSlitsでやってたKung-Fusionってイベントによく行ったりしてました。
キミドリと四街道(NATURE)にはほんとに良くしてもらいましたね。
そのSlitsってクラブでLB祭り(*)もやっていて、通ってるうちに…お店からかな、「君らもやんない?」って誘われました。
俺らとしては出ない理由もないので、「やらせて下さい」って言って、そこから参加するようになりましたね。

(*スチャダラパーやキミドリが所属する大所帯のコレクティブ・Little Bird Nationによる伝説的イベント。1996年には総決算となる大LB祭りが開催され、さんピンCAMPと並ぶ歴史的なイベントとして名を遺した)

─LB祭りに出始めたときも、SHAKKAZOMBIE以前のメンバーで出たんですか?

TSUTCHIE:
ちょっとそこは時系列覚えてないんですよ。
少なくとも前のメンバーでは1-2本デモテープを作って、ライブもやってて。
で、メンバーが1人抜けることになって。

その頃…俺らって元々バンドやってる友達が多かったんですけど。
そんな中でバンド友達から「ラップやりたがってる子がいるんだよ」って紹介されたのがヒデボウイでした。
ヒデボウは元々バンドやってたので、その流れで向こうから来た感じです。
それが…時期が曖昧ですけど1994年とかなのかな。

それで3人でLB祭りにも出るようになって。
とは言え別に「LB Nationに入った」って感じでもなくて、そこに混ぜてもらう、って雰囲気でしたね。

─SHAKKAZOMBIEが稀有なのって、LB祭りに出たり、LB的なバックグラウンドがありつつも、さんピンCAMPにも出てるところじゃないですか。
 後追い世代からすると、あのHIPHOPのハード / ポップスの両サイドにいるって不思議に思うポイントで。

TSUTCHIE:
少なくとも僕ら3人の中では、自分たちはどっち側にいて…みたいな意識はゼロだったんですよ。
単にみんなと仲良いからみんなとやってるだけであって。

むしろ、さんピン組とLB組で派閥がある、みたいな雰囲気があったのは、当時のメディアの影響が大きいと思います。
両者が直接何か言い合ったりみたいなことは、俺の知ってる限りでは全然なかったんじゃないかな。
さんピンとLBって、メディアからするとハードコアとポップス、陰と陽みたいに対比しやすかった存在だと思うんですよ。
CD屋さんでも販売スペースを区切るときに自然と棚を分けてそう認識される、みたいな。
だからメディアやリスナーはそういう区切りで見るようになっていったのかもしれないですけど、プレイヤーは別に現場でも仲良くしてて…どこでこんなに分断されたのか、ちょっと分かんなかったですね。

キミドリだって(さんピンCAMP主催の)ECDさんと一緒に曲やったり全然してたし…スチャダラのBOSEくんの弟の光嶋崇くんって方がいるんですけど、その人に関してはLB祭りも出てるし、逆にさんピンCAMPの映像編集等にも関わってるし。

SHAKKAZOMBIEが(デビュー作の)『SHAKKATACK』(1995年)をNATURAL FOUNDATIONから出したのも、あのレーベルってTOY’S FACTORYのサブレーベルで。
そこに色々関わってた光嶋崇くんから誘われたから出したって感じ…だったと思う。
だから、別にそこに大きな意味はないんですよ。
現場ではみんな垣根なく活動してましたね。
特にシャカの3人は縛られるのが好きじゃないので、そういう派閥的な話には我関せずでやってました。

─そのマイペースな雰囲気はSHAKKAZOMBIEに凄く感じます笑
 3人でSHAKKAZOMBIEを結成してからはどういう風に過ごしてたんですか?

TSUTCHIE:
だいたいはSlitsに遊びに行って、昼間はCISCOに何時間も溜まって…みたいな感じでした。
あとはOSUMIくんちに遊びに行ったり…ヒデボウはよく泊まってたそうです。
OSUMIくんちや俺んちに集まって、打ち合わせするって感じでしたね。

SHAKKAZOMBIEとしてデモテープを作り出す前から、少なくとも俺は、グループとして「これでやってやるぞ」みたいな、ガッツリした志はありました。
俺も専門学生の頃に24回ローンしてサンプラーとシーケンサー揃えて…50万くらいしましたね。
初めて買ったのはAKAI S950とRolandのMC-50でした、S1000も当時出てたんですけど、さすがに高くて。

─そこからLB祭りへの出演を重ねて、まずは『SHAKKATACK』(1995年)がNATURAL FOUNDATIONから出る訳ですが、この作品はいま振り返るとSHAKKAZOMBIEの中でも少し異質ですね。
 少し当時のホラーコア感が漂うというか。

TSUTCHIE:
当時はGravediggazとかのホラーコアが流行ってたので、その影響はあったな、と。
グループ名もホラーコアぽいって言われたりするんですけど…こないだ(名付け親の)石黒くんに聞いて判明したのは「単に(レゲエミュージシャンの)Jah Shakaと(メタルバンドの)White Zombieを混ぜてみただけ」ってことです笑

だからそこはなんのホラーコア的な由来も実はなかったんですけど。

唯一方針があったとすれば、「HIPHOPは何を吸収しても良いんだ」という思い


─そこから『HERO THE SZ』(1997年)でSHAKKAZOMBIEのイメージを基礎付ける、(“Z.O.M.B.I.E.”などのホラーテイストも時折ありつつ)どこか清涼な空気感を纏い始める訳ですが。
 本作の制作にあたってはどういう風に進めたんでしょうか。

(配信ストアでは5曲のみの提供。本来は14曲入り)

TSUTCHIE:
仰る通り、曲によってはこの作品もホラーコアチックなものがあるじゃないですか、そういう曲は当時のトレンドを引き継いでましたね。
それ以外の曲については…まず、このアルバムを作るにあたってトラックを50, 60曲くらいは用意したんですよ。
その中からMCの2人がやりたいと思ったものを選んで歌詞を書くって感じで。
そこで「ソロ曲もあると良いよね」って話にはなって、その選択は2人に任せて。

だから曲のテーマもビートを聴いて、2人がリリックを設定して書いて…、だから全体的な統一感というよりはシングルの積み重ねって感じだったかなと。
一方でサラッと流れで聴けるように、前の曲の終わりが次の曲の頭に流れてるような仕様にしました…まあ、それも当時のトレンドだったからっていうことかなと。

─なるほど。
 BIG-Oさんの観点で言えば代表作である”空を取り戻した日”が収録された作品でもある訳ですが、この曲だけプロデュースが「TSUTCHIE & OSUMI」表記ですよね。

TSUCTCHIE:
この曲はビートを聴いた時点でOSUMIくんが「この曲は俺がソロでやりたい」って言って。
クレジットの表記がダブルネームなのは、この曲ってHOOKでバックコーラスが流れるんですけど、あのサンプルネタを持ってきたのがOSUMIくんなんですよ。
だから言ってしまえばそれだけが理由なんですけど、この曲の中にあれを嵌めたかったOSUMIくんの思い入れとかは、かなり気合が入ってたんだと思います。
内面までは見えないですけど、彼としてのやりたいことはハッキリしていたんだろうと思います。

─そうしたメンバー間での感性の相互理解みたいな部分はどうやって行っていたんですか?

TSUTCHIE:
SHAKKAZOMBIEって、スタジオに集まったらまず「いま自分が何を聴いてるか」をお互いに聴かせ合う時間があったんですよ。
日によっては先にレコ屋寄って、レコードを仕入れてからスタジオに入って…RECせずに何時間もお互いに聴かせ合うみたいなことをしてて。
めっちゃ楽しい時間なんですよね、早く録れよって話なんですけど笑
だからその中で他の2人がいま聴いてるのはこれ、っていうのが分かって、互いに刺激されたりとか。

“空を取り戻した日”も、そういう中でリリシストとしての部分を伸ばしたかった頃なのかなと思いますね。
一歩違うことをやりたいって思いはあったのかなと。

─本作は”共に行こう(VERSION PURE)”でのちのNITRO MICROPHONE UNDERGROUNDの面々を初めて音源に呼び込んだことでも度々話題に上がります。

TSUTCHIE:
あれはやっぱりMCの2人が渋谷で良く遊んでた中で知り合って、レコーディングすることになりました。
SHAKKAZOMBIEって俺が一番年上で、2個下がヒデボウ、その更に2個下がOSUMIくんなんですけど、ニトロの面々はその更に少し下の世代で。
だから世代的に近いヒデボウやOSUMIくんと気が合ったんじゃないかと思います。
みんな元気なんで、ワイワイしながら録りましたね。

─2nd『JOURNEY OF FORESIGHT』(1999年)からはむしろTSUTCHIEさんのビートメイクの変化が顕著ですよね。
 このあたりの変化の背景を伺ってもよろしいでしょうか。

(配信ストアでは14曲のみの提供。本来は16曲入り)

TSUTCHIE:
ひとつはまず、シンプルに機材が変わったんですよ。
2ndの頃にはMPC3000を使うようになってて…それで音作りも結果的に変わったのかもしれません。
ただ、そのうちインストの”MUSIC OF COMING AGE”だけはサンプラーが違うんですよ、あれだけZoomのST-224を使っていて…それでループを組んで、ベースやシンセを足しました。

だから何か明確に「俺はビートの嗜好を変えるぞ」みたいなのがあった訳ではなくて、どちらかと言うと流れによるものだと思います。
1stのときも実はシンセを足してたり、元ネタは(ソウルやファンクでなく)プログレから取ってたりだとか…いわゆるド真ん中のトラックにならないように意識はしてたんですよ。
そこから2ndでは、機材を変えたことで更に出来ることの幅が広がったことであるとか、そういう理由も入ってきて。

─そういう流れで変化していくTSUTCHIEさんのビートに対して、BIG-Oさんやヒデボウイさんから意見はあったんですか?

TSUTCHIE:
全然なかったですね笑
別にやっちゃえばいいじゃんというか、音に関しては本当に好きにさせて貰ってました。
SHAKKAZOMBIEの制作方法として、リリックの相談はMCの2人でしますけど、ビートは先にテーマがあるとき以外はそれに合わせず好きに作ってるんですよ。

ただ、さっきも言った通りみんなでスタジオに入って聴いてる曲を聴かせ合う、みたいなことをずっとしてるから、何となくMCたちの好みは分かってるつもりで。
あとは2人の気に入ったトラックをチョイスして貰うという。

最初は2-4小節のループだけの6分くらいあるビートを持っていって聴かせて、それにリリックを乗せて貰って。
ラップを聴いた上でMixで(Illicit) Tsuboiくんと再度構成を作るみたいな手間を掛けてました。
当時のサンプラーってパラアウトが8チャンネル(=トラック)しかなくて。
ビート作るにも、キック・スネア・ハイハット・ベースを入れたらそれだけで4チャンネル埋まっちゃう。
その上にネタを乗せたりして作る訳で、その制限で出来ること、出来る制作方法っていうのは凄く意識してました。

─一方で、この頃からロックバンドとのミクスチャー企画・Revolver Flavorへの参加や、かなり実験的な試みを含むREMIXアルバム『S-Sense 2000』(2000年)が出るなど、グループとしてもクロスオーヴァー感が強まったと思います。
 当時のSHAKKAZOMBIEの中ではどういった話し合いがされていたんでしょうか。

(配信ストアでは8曲のみの提供。本来は12曲入り)

TSUTCHIE:
いや…この辺もね、ほんとに僕らの中では方針とかってなくて笑
最初に言った通り、僕らって元々バンド仲間が多かったのもあって、普通に昼間のライブハウスでやるようなバンドイベントにも呼んでもらってて。
その流れで打ち上げのときに「今度一緒にやんない?」ってノリで動いてただけですね。
「俺たちはジャンルをクロスオーヴァーしていくぜ」みたいなカチッとした方針みたいなのは、なんっにもなかった笑

SHAKKAZOMBIEに唯一方針というか、信念的なものがあったとすれば、「HIPHOPは何を吸収しても良いんだ」という思いです。
この文化や歴史に対してリスペクトを持って学んでいく中で、「こうしなきゃいけない」みたいなものはないんだ、「とにかくカッコ良ければ良いんだ」って理解した。

─当時バンドと積極的にクロスオーヴァーしていたのは、例えば『MAD MAXX』を出したラッパ我リヤなど数例ありますが、やはり稀有な動き方だった思います。

TSUTCHIE:
プレイヤーからするとそこの垣根みたいな意識って大してなかったと思います。
あくまで俺らはバンドと繋がる機会が多かったから繋がってたというだけであって…お互い「面白いからやろうよ」っていうだけで。

元々USでもRUN DMCがエアロスミスと”Walk This Way”を出したり、1993年の時点で(ロックバンドとラッパーがクロスオーヴァーしたサントラである)『JUDGEMENT NIGHT』が出てたりする時点で、バンド側の人たちもそういうことには興味があったし、俺らも「垣根なんてなくて良いんだ」って思ってたので。

SHAKKAZOMBIEは3人とも色んな音楽を聴いてきた中で、「自分がプレイヤーとしてやるならこれかな」っていうのでHIPHOPを選んだメンツが集まったグループなので。
原体験にはロックを聴いてモッシュした記憶があったりする中で、そういうのも含めてアウトプットとしてHIPHOPを表現すれば良いじゃん、っていうくらいだったと思います。
でもまあ、こういうことも当時意識してやってた訳じゃなくて、いまきちんと言語化するとそうなるかなってところですけどね。

OSUMIくんから「ちょっとシャカ休もうと思います」って言われて


─続く2002年には、ゲームミュージックのような電子音が特徴的な『GOODFELLAZ』(2002年)が出ています。
 この作品も2ndとはかなりビートの趣が変わりましたね。

(配信ストアでは9曲のみの提供。本来は15曲入り)

TSUTCHIE:
これは…やっぱりトラックを作る人間として、サンプリングを使ったトラックのあり方について凄く考えなきゃいけない時期だったんですよ。
本当にクリアランス関係がうるさくなってきて。
「このネタはいまいくらで買えますよ」みたいな商売で寄ってくる海外の業者とかもあったり。
結構ややこしい雰囲気はありました。
「このネタなら何秒までは使用してOK」とか、ほんとに色々あって。

俺は(USの名門アングラレーベルである)Rawkusが好きで、中でもMOS DEF “Universal Magnetic”を手掛けたShawn J. Periodが凄く好きだったんですよ。
で、Shawn J. Periodが宗教上の理由もあってサンプリングを止めるって言い出したときに、時勢もあって結構感銘を受けて。
「自分もサンプリング以外のアプローチを考えるか」って思いはあったので、こういう感じになったのかなと。

でも…このアルバムを作ってた時はとにかく記憶がないんですよ笑
それは忙しかったのもあったと思うし…当時はもう30分で1トラック作れるような境地まで達してました。
だから沢山ビートを作りまくってたし、そこからMCの2人にチョイスしてもらうって感じだったので。

─このビートの変化に対しても、BIG-OさんとIGNITION MAN(ヒデボウイ)さんからは特に異論などなかった?

TSUTCHIE:
なんにもなかったですね。
やっぱり最先端のトレンドに加えて、そこから派生する音楽まで、3人とも逐一チェックしてたので。
そこの違和感はなかったんだと思います。


─このアルバムのサウンドの鳴りは他にもましてハイセンスですよね。

TSUTCHIE:
それは…いくつかサンプリングしてる曲も実はあるんですけど、そういう曲に関してはサンプリングの仕方の影響かもしれません。
このときから、サンプリングをモノラルからステレオにしてみたり。
やっぱりL / Rの片方からだけ出てるものを使うか、ステレオで鳴ってるものを使うかでは、鳴らしたときの空気感が全然違ってきて。

─本作は他の作品より客演が圧倒的に多いアルバムでもあります。

TSUTCHIE:
これもまあ「今回は色んな人呼んでみる?」という感じでしたね。
当時のトレンドがそういう客演が増える感じだったのも影響してるかもしれません。
GASBOYSを呼んだりしたのは結構驚かれましたけど、自分たちが一緒にやりたい人を自然と呼びました。

─結果的にこの『GOOD FELLAZ』がSHAKKAZOMBIEのラストアルバムになりました。
 当時から「これを機にクルーの活動は落ち着かせよう」という空気はあったんでしょうか。

TSUTCHIE:
そうですね…OSUMIくんもヒデボウもアパレルの方で本腰入れてく中で、やっぱり「ちゃんとひとつのことを全力でやり遂げたい」「どっちも中途半端にはしたくない」っていう想いはあったと思います。

『GOODFELLAZ』が出来て、OSUMIくんから「ちょっと(シャカとしての活動)休もうと思います」って言われて。
それで「ああそうか、分かった」って。
だからキッパリと休むタイミングはあったんですけど、とは言え客演仕事もやったりとかはしてるので…あくまでSHAKKAZOMBIEとして「止める」じゃなくて「休む」なんですよ。
俺自身も活動再開しようって話になったらいつでも、って思いでした。
だからOSUMIくんから「TSUTCHIEくん、トラック作ってよ」って連絡来たらいつでもいけるようにって…もう俺も50歳を過ぎましたけど、別にそれが60歳のときに言われても良いように…そう思ってスタンバイしてきたし、変わらずビートを作り続けています。

3人ともD.L (a.k.a. DEV-LARGE, 2015年に逝去)の追悼ライブで集まったりはしてたし。
あと最近聞いたんですけど、実は「ちょっとまた(SHAKKAZOMBIEを)やろうかな?」という気持ちがOSUMIくんにはあったみたいです。

─あと少し時間があれば、SHAKKAZOMBIEが再始動していたかもしれないと…それは色々な意味で惜しまれますね。

TSUTCHIE:
MONDO GROSSOの”One Temperature” (2018年)でOSUMIくんが久しぶりにラップしたじゃないですか。
あの一言目が「I’m back」なんですよ。
俺、それは意味のある一言だったと思っています。

─BIG-Oさんとしても、少しずつリブートする気持ちがあったのかもしれませんね。
 ありがとうございました、改めてBIG-Oさんのご冥福をお祈りします。

以上(2021/03/31)

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